休憩部

第八回 「鎌倉殿の13人」ゆかりの地 【神奈川編①】

2022.3.11

皆様、こんにちは「テ・バサキ」です。

今年の1月から始まっている、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」皆様ご覧になられていますか?
第一回から第七回までは、ツイッターの世界トレンドナンバーワン、第八回は世界都連祖2位、ということで序盤戦から非常に注目されているようです。

ご覧になられている方も多いとは思いますが、大河ドラマは1年がかりの長丁場です。
まだ見ていない方でも、これまでのあらすじなどネット上などでも探せると思いますのでこれからでも十分追いつけますので興味のある方は是非ご覧いただきたいと思います。

このブログは、3/11(金)に執筆していますが、当方のいる福岡は昨日の気温が18℃ととても暖かく、数日前は朝晩はまだ結構寒かったので、ここに来て一気に季節が進んだような気がします。
コロナウイルス感染者の人数も、日を追って減少傾向となっておりますので、少しずつ明るい兆しが見えているような状況になって来ていると思いますのでこのまま順調に減少となって、日常生活が取り戻せたらと祈るばかりです。

そんな中で今回は、ドラマのゆかりの地をご紹介したいと思います。

【鶴岡八幡宮(つるおかはちまんぐう)】

鎌倉といえば、やはり一、二番に名前の上がる観光スポットではないかと思います。
先日弊社の「ハラミちゃん」のブログでもここ鶴岡八幡宮の紹介があったので少しかぶってしまって恐縮ですが、、、、ここは絶対に外せないところなので改めてご紹介させていただきます。
鎌倉殿の13人の主君である初代鎌倉幕府将軍「源頼朝」のゆかりの地であるこの鶴岡八幡宮ですが、鎌倉にあることから、別名を「鎌倉八幡宮」とも呼ばれております。源頼朝の先祖で河内源氏2代目棟梁「源頼義」(みなもとのよりよし)によって京都の「石清水八幡宮」(京都府八幡市)を由比ヶ浜付近に勧請(かんじょう:神仏の分身・分霊を他の地に祀ること)したことが縁起です。

祭神である「八幡神」は古来源氏の氏神とされ、武芸の神として信仰されていました。1180年(治承4年)、源頼朝が現在の場所に遷すと、鎌倉幕府の守護神として武家社会の中心に位置づけられるようになったのです。

源頼朝は、鶴岡八幡宮を中心に鎌倉を整備。鶴岡八幡宮の前には京都の朱雀大路に倣った参道が作られ、由比ヶ浜から真っ直ぐ2㎞ほど続くこの参道は「若宮大路」と呼ばれました。源頼朝は鶴岡八幡宮や若宮大路の造成を自ら指揮したとも言われ、若宮大路にある「段葛」(だんかずら)と呼ばれる、周りよりも一段高くなっている道は、妻「北条政子」の安産祈願のために作ったとされています。

また、源頼朝は放生会(ほうじょうえ)や流鏑馬(やぶさめ)などを奉納し、鶴岡八幡宮は源頼朝の死後も鎌倉幕府の公的行事の場として扱われるようになっていったのです。鶴岡八幡宮は鎌倉幕府が滅亡してからも、武家武門の守護神として、全国の武士に広く信仰されました。

なお、鶴岡八幡宮は、弟「源義経」の愛妾「静御前」(しずかごぜん)が舞を披露したり、息子で鎌倉幕府3代将軍「源実朝」(みなもとのさねとも)が暗殺されたりした場所として、源頼朝とは切っても切れない縁がある地なのです。


【宝戒寺(ほうかいじ)】

 「宝戒寺」は、2代執権「北条義時」の邸宅である「小町邸」の跡地に建立された寺院です。
小町邸は、北条義時が居を構えて以降、5代執権「北条時頼」(ほうじょうときより)や8代執権「北条時宗」(ほうじょうときむね)をはじめとする歴代北条得宗家が居住した邸宅であることから、「北条執権邸」とも呼ばれています。
往時の小町邸は、現在の宝戒寺が持つ面積の10倍の大きさを誇りました。宝戒寺は、1333年(元弘3年)、「東勝寺合戦」において滅亡した北条一族の慰霊を弔うために、「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)が「足利尊氏」(あしかがたかうじ)に命じて建立させた寺院です。
宝戒寺は天台宗の寺院で、子育て経読地蔵大菩薩や毘沙門天などが安置されています。また、北条得宗家の鎮魂のため、境内にある「德崇大権現堂」(とくそうだいごんげんどう)には、14代執権「北条高時」(ほうじょうたかとき)が「德崇大権現」として祀られ、毎年鎮魂のために大般若転読会(だいはんにゃてんどくえ)が修められているのです。

宝戒寺は花の名所としても知られ、春の梅や桜、夏の百日紅(さるすべり)、秋の萩、冬の椿などが四季折々で咲き誇り、美しく境内を彩っています。


【建長寺(けんちょうじ)】

 「梶原景時」(かじわらかげとき)は、もともとは平家側の武将であったものの、源頼朝の危機を救い、合議制を行った13人の御家人のうちのひとりとなった武将です。
鎌倉には、梶原一族が住んでいた土地に「梶原」の地名がある他、梶原景時が「上総介広常」(かずさのすけひろつね)を暗殺したのち、太刀に付いた血を洗い流したとされる湧水「梶原太刀洗水」(かじわらたちあらいみず)などの名所が残されています。
ところが、梶原景時の死から53年後に建立され、現在では北鎌倉を代表する大寺である「建長寺」(神奈川県鎌倉市)にも梶原景時に関する伝承が残されているのです。

伝承によると、建長寺が建立されて間もない頃、三門で行われた「施餓鬼会」(せがきえ:餓鬼道に堕ちた衆生に水や食物を与えて供養する仏教行事)が終了した直後に、騎馬武者が現れたと言います。

騎馬武者は施餓鬼会が終わったことを知ると、残念そうにその場を立ち去ろうとしますが、それを見た僧がもう一度施餓鬼会を行うと、騎馬武者は喜び、自分を梶原景時の亡霊であることを告げて姿を消したという話が残されているのです。そのため、建長寺では現在でも毎年、梶原景時のために施餓鬼会を2度開催しています。

全く余談ですが、、、この建長寺のすぐ横に、「鎌倉学園」という私立高校があり、

当方「テ・バサキ」は生まれが横浜で高校受験時に同学区内にあった当学園を受験したことを思い出しました。最終的には公立高校に受かったので鎌倉学園には行きませんでしたが、ちなみにこの鎌倉学園は、サザンの桑田佳祐、堺正章さんなども卒業した学校で、今は分かりませんが、当時は仏教の授業を建長寺で行っていたようです。

【妙本寺(みょうほんじ)】

「妙本寺」は、鎌倉殿の13人のうちのひとりで、源頼朝の信任が特に厚かった御家人「比企能員」(ひきよしかず)の屋敷があった場所に建立された寺院です。

この場所は、比企一族が住んでいた谷戸であったことから「比企谷」(ひきがやつ)と呼ばれており、比企能員の末子「比企能本」(ひきよしもと)によってこの地に建立されました。なお、妙本寺の山号である「長興」は比企能員の法名から、寺号の「妙本」は比企能員の妻の法名から取られています。

源頼朝の死後、比企一族は北条一族と対立し、「比企能員の変」によって滅亡。妙本寺の境内には「比企一族供養塔」などがあります。

また、ここ妙本寺は日蓮宗最古の寺院と言われているところでもあり、あじさいの穴場スポットとしても知られているところです。


【甘縄神明宮(あまなわしんめいぐう)】

 「甘縄神社」は、710年(和銅3年)に「行基」(ぎょうき)が草創したとされ、鎌倉最古の神社と言われる神社です。鎌倉殿の13人のひとりで、安達一族の祖である「安達盛長」(あだちもりなが)の邸宅があったとされ、鳥居の脇には「安達盛長邸宅跡」の石碑が建てられています。

また、甘縄神社は源氏や北条氏とも関係の深い神社で、源頼朝が社殿を修復したり、8代執権・北条時宗が産湯に使ったとされる井戸が存在したりするのです。

甘縄神明宮のご祭神は天照大御神であることから、頼朝公が「伊勢別宮」として篤く信仰もしていました。境内に一歩足を踏み入れると、まるでその歴史が伝わってくるようです。

以上、今回は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のゆかりの地のスポットの内神奈川県のスポットの一部をご紹介しました。

次回以降には、神奈川編のパート2、また冒頭でも書きましたが静岡県にもゆかりの地が多数ありますので静岡編も予定しておりますので、ご期待ください。

最後までご覧いただきありがとうございました。

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