休憩部

第九回 「鎌倉殿の13人」ゆかりの地 【神奈川編②】

2022.4.28

皆様、こんにちは「テ・バサキ」です。

前回、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のゆかりの地の神奈川編①をご紹介しまして、大反響(?)をいただきましたので、今回は第2弾の神奈川編②としてご紹介したいと思います。

【覚園寺(かくおんじ)】
鎌倉にある覚園寺の前身は、義時が建立した大倉薬師堂といいます。
義時は薬師如来への信仰が強く、この薬師堂を創建しました。しかし大蔵薬師堂は火災で消失してしまい、1296年に北条貞時が覚園寺として創建。北条氏滅亡後は後醍醐天皇の勅願所として利用され、南北朝時以降は足利氏の祈願所として庇護されることになります。江戸時代後期の罹災や、関東大震災により荒廃していましたが、近年精力的な再建により復興が遂げられ、中世の鎌倉の趣を残す寺院として人気を集めています。

また薬師堂の前に植えられている樹齢800年のイヌマキですが、幹の中心部は空洞になっており「かながわ100名木」に選ばれている古木です。茅葺屋根の薬師堂に入ると、正面に日光菩薩、月光菩薩を脇侍とした薬師如来像が奉られていて、堂内には見上げるほど大きい十二神将像が並んでいます。

【寿福寺(じゅふくじ)】

当寺の一帯には源頼朝の父・義朝の館があったといわれ、その後、北条政子が頼朝の遺志を継いで明菴栄西を招いてここに寺を建て始めました。裏山の墓地にあるやぐらには、源実朝、北条政子の墓と伝わる五輪塔があります。
三代将軍実朝もしばしば訪れ、やがて十数か所の塔頭がある大きな寺になりました。境内は国史跡となっています。

【岩船地蔵堂(いわふねじぞうどう)】

神奈川県鎌倉市扇ガ谷3丁目にあるお堂です。鎌倉幕府の初代将軍になった源頼朝の長女・大姫(おおひめ)を供養する岩舟地蔵尊が祀られてた地蔵堂と伝わり、日本三大岩船地蔵(下野・岩船山の高勝寺など)のひとつになります。江戸時代初期の1691年に、地蔵堂ができ、追加で木造地蔵尊が安置されました。
その木造地蔵尊の胎内の銘札に「大日本国相陽鎌倉扇谷村岩船之地蔵菩薩者當時大将軍右大臣頼朝公御息女の守本尊也」と記載されているそうです。鎌倉・岩船地蔵堂は、住宅地の一角にあり、鎌倉時代には近くに中原親能の邸宅があった模様です。

【亀ヶ谷坂 (かめがやつさか)】

扇ガ谷と山ノ内を結ぶ道でその先の武蔵(むさし:現在の東京・埼玉ほぼ全域に神奈川県東部を含めた地域)に通じる要路でした。現在でも生活要路として使用されている国指定史跡です。
今も急な坂道ですが昔はもっと急な坂道だったようで、建長寺の大覚池にいた亀がこの坂を上ったところ急坂のために途中で引き返したあるいはひっくり返ったことから亀返坂(かめかえりざか)とも言われるようになったと伝えられています。

また、この坂の北側は延寿堂谷(えんじゅどうがやつ)といい昔、建長寺の僧たちが体を悪くした際に療養した延寿堂があったためこの谷の名がついたといわれています。

【円覚寺(えんかくじ)】

二度の元寇(文永・弘安の役)で亡くなった両軍の兵士を弔うために、1282(弘安5)年、鎌倉幕府第8代執権北条時宗が中国(宋)の高僧無学祖元を迎えて創建した禅宗寺院です。 臨済宗円覚寺派の本山で、鎌倉五山の第二位。本尊は宝冠釈迦如来坐像。妙香池、白鷺池などの池があり、国の名勝に指定されています。

国宝の舎利殿(しゃりでん)には、源実朝が宋から請来し、もと大慈寺に安置されていたという仏舎利(ぶっしゃり)が祀られています。鎌倉時代後期に建てられた舎利殿は火災で焼失。現在の舎利殿は、北条氏康が太平寺客殿(仏殿とも)を移築したものです。
※舎利殿は、常時公開されておりません。

以上、今回は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のゆかりの地のスポットの内神奈川県のスポットを神奈川編②としてご紹介しました。

さらに次回以降には、神奈川編のパート3、その後に静岡編もご紹介していきたいと思います。
最後までご覧いただきありがとうございました。

 

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